鈍行列車 ヨーロッパ編

欧州2ヵ月一人旅

ルーマニア ブカレスト① ルーマニアのバス

ブカレストへは夜行バスで向かうことにした。

バスは夜の8時発だったので、夕方まではセーチェーニ温泉でくつろぐことにした。

温泉内では物価が高いと踏んで、近くのマートでジュースとサンドイッチを買って行った。

女主人はレジでの会話のほとんどをハンガリー語で行っていた。

私が去り際にクスヌム、ありがとうとハンガリー語で言うと、ニヤッと笑った。

ほんの些細なことだが、久しぶりの英語以外の会話に心が躍った。

ヨーロッパは良くも悪くもどこに行っても英語が通じる。

便利な反面、異国間が薄れてしまうのも否めない。

私が最低限”ありがとう”だけでも母国語を使うようにしているのは、単にコミュニケーションの為というよりは、その異国感を無理やりでも濃くしようとしている面もあるだろう。

 

セーチェーニ温泉では何とかビーチチェアを確保し、温泉に入ったり本を読んだりして過ごした。

実際温泉と言うよりは、温水プールに近く、何時間でも浸かることが出来た。

私は時間の許す限り、チェアに寝そべり思う存分くつろいだ。

 

バスターミナルは街はずれにあった。

市街地は荘厳な建物が立ち並ぶブダペストも、少し外れるとそこは普通の地方都市であった。

バスは夜8時発であったが、電光掲示板が指すバス停には30分経ってもバスはやって来なかった。

次第に乗客たちが焦り始める。

ターミナル内のチケット売り場は既に閉まっており、私たちには何の情報も無かった。

すると、乗客の誰かが別のバス停だったのじゃないかと騒ぎ始めた。

彼はルーマニア人で何度か同じバスに乗ったことがあるらしく、前回は別のバス停だったと主張し始めた。

ルーマニアのバス会社はいつも適当だとFワードを使ってぼやいている。

彼以外はみんな私のような外国人旅行者だった。

私たちは彼の言うことに従い、みんなでバス停を移動した。

しかし待てど暮らせど、バスはやって来ない。

そのうち乗客同士が各々自己紹介を始めた。

私の前に並んでいた男性4人組はフィンランドから来た大学生で、ルーマニアへは山登りに行くらしい。

私の後ろの女性はどこから来たかは言わなかったが、どうしても明日朝までにブダペストへ行く必要があるみたいだった。

バスは結局45分後に最初のバス停に到着した。

運転手は一言も謝罪しなかった。

ただ、「道が混んでいた」とつぶやいた。

 

ルーマニアシェンゲン協定外だったので、国境で何度かパスポートのチェックを受けたが、荷物のチェックは全くなかった。

バスはそれ以外にも給油やトイレ休憩なので何度か止まることはあったが、私は初めての夜行バスで案外快眠することが出来た。

出発時はどうなるかと思ったバス旅であったが、翌朝目覚めるとそこはもうルーマニアブカレストであった。

 

セーチェーニ温泉

 

ハンガリー ブダペスト② Travelling isn't...

ブダペストには元々1泊の予定だったが、特に急ぐ必要もなかったので、

延泊してドナウ川の対岸のお城へ行ってみることにした。

チケット代を節約し館内には入ることは叶わなかったが、外観からでもハプスブルク家統治時代の建築美を堪能することが出来た。

 

海なし国あるあるとして、夜にはドナウ川がまるでビーチのようにパーティー会場と化していた。

ワルシャワで見た光景と同じである。

川岸には何隻もの大型船が横付けされ、船上では若者たちがDJに合わせて踊っている。

私はその輪に加わることはなかったが、町の若者の活気に少し元気を分けてもらえた気がした。

 

宿に戻ると、次の目的地を考え始めた。

明日はブダペストを出ようと思っていた。

以前出会った旅行者に、ハンガリーではティファニーという小さな町をお勧めされていた。

調べてみると、ティファニーブダペストから南西方向にあり、そのままクロアチアへと入るルートになる。

私はトルコをヨーロッパ旅行の折り返し地点と決めていたので、一旦クロアチアへ行くと、陸路でトルコまで行くのが遠回りになってしまうという難点があった。

反対にトルコ目指して進むとなると、南東へ行くことになるのだが、ハンガリーで他に特段行きたい場所は思いつかなかった。

ネットで色々と検索していると、ブダペストからルーマニアブカレストへ行く夜行バスを見つけた。

旅を出てすでに3週間経過しており、そろそろ折り返し地点に到達しておくべきだろうか、という焦りが頭をかすめた。

残り5週間に迫った残りの旅をゆったり過ごすためにも、ここは時間とお金を節約しよう、私はそう思い立ちブカレスト行の夜行バスのチケットを予約した。

 

その晩、共有スペースで夜ご飯を食べていると、壁に描かれた言葉に目が留まった。

そこにはこう書かれていた。

 

"旅は必ずしも美しいものではない。旅は常に快適なものでもない。時には傷つき、心が折れることさえある。でも、それでいいのだ。旅はあなたを変えるだろう。それはあなたの記憶に、あなたの意識に、あなたの心に、あなたの身体に痕跡を残す。あなたはそこで何かを得るだろ。そして願わくば、何かをそこに残していって欲しい"

 

誰の言葉かは知らないが、彼もしくは彼女の言うことは痛いほど理解出来た。

まだ3週間しか経っていないこの旅で、人の親切に助けられたこともあれば、冷たくあしらわれたことも何度もあった。

悲しい気持ちになる度に私はこんなところで何をしているんだろうと自責の念に駆られた。

旅先では、何のために旅行しているんだと聞かれることが何度かあった。

その都度私は自問自答した。

いつも適当に答えてはぐらかしていた。

だけど、この言葉を見て、すっと胸に落ちるものがあった。

私は私の意識や身体に刻み込まれる"何か”を探しているのだと感じた。

そして、この言葉は旅行中に私の脳裏に焼き付いて離れなかった。

 

ブダペスト 2B Hostel 共有スペースの壁

 

ハンガリー ブダペスト① サウナで恋バナ

ウィーンからハンガリーブダペストへ。

列車で約2時間30分。

陸路で行く人は少ないのだろうか。

6人掛けのコンパートメントは私だけだった。

ウィーンを出ると市街地が消え、どこまでも黄金色の畑が広がっていた。

私は貸し切りの車内で思う存分くつろぎ、これからの旅に思いを馳せた。

普通なら携帯でブダペストの観光地を探すのだが、オフラインのスマホはカメラ以外何の役にも立たない。

列車内にWi-Fiがあれば別だが、田舎のほうに行けばいくほどWi-Fiなんてものはなくなってしまう。

私は割り切って、日本から持ってきていた世界史の教科書を広げた。

ハンガリーは元々オーストリアハプスブルク家の統治下にあったそうだ。

その為、中欧の建築の雰囲気を多分に受け継いでいる。

しかし、第二次世界大戦後はソ連の加盟国となる。

それによって東欧のイメージが強く、経済も他の西欧中欧諸国と比べて力が弱いという状況だ。

私がそれ以外に知っていたことと言えば、温泉とドナウ川である。

どんな温泉なのか、どんな川なのか全く事前情報がなかったが、逆にそれが私の心をワクワクさせた。

ブダペストではどんな景色を見ることができるだろうか。

浮足立ちで、ブダペストケレンフォールド駅へと降り立った。

 

まずはチェックインの為に宿へと向かう。

今夜の宿は1泊5,800フォリント、日本円で2,400円。

町の中心地でこの値段だ。

ウィーンからたった2時間30分の距離で、こうも物価が違うとは嬉しい驚きであった。

しかもかなり広めの6人部屋だ。

同部屋のおじさんが終始上裸であったことを除けば、かなりコストパフォーマンスが高い宿だった。

ベッドに腰掛けてさっそく今日行けそうな温泉を探した。

ヒットしたのはルダシュ温泉という徒歩20分ほど離れた温泉だ。

カード決済の際に驚いたのは、ロシア人を暗に断る注意書きだ。

そこには「ロシアの銀行に紐づいたカード決済は無効」の文字。

ウクライナ侵攻により、ロシア排除が進んでいるヨーロッパ。

特に中欧東欧諸国ははっきりとウクライナ支援のスタンスを表明している。

チェコでは「プーチンウクライナから手を引け」という横断幕が教会に高らかに掲げられていたのを思い出した。

日本では、ウクライナ支援の声を耳にしてもロシアを直接非難する市民の声は少ない。

どちらがいいとは言えないが、私は旧ソ連国としての彼らの怒りを肌身に感じることができたような気がした。

 

ルダシュ温泉は、トルコ風呂のようなドーム型の内装でかなり広かった。

水着で入ることにはかなり抵抗があったが、徐々に違和感は減っていった。

お風呂の温度はかなり低めで温水プールよりはやや温かい。

本を持ち込んでいる人がいたり、女の子のグループが談笑したりしていた。

サウナもドライとスチームの2種類あった。

水風呂こそなかったが、紐を引っ張ると冷水が入ったタライがひっくり返るという謎の旧式シャワーが楽しかった。

 

ドライサウナでは、ハンガリー女性に話しかけられた。

私が日本から来たことを伝えると、彼女は懐かしそうに元カレの話を始めた。

昔タイ人と付き合っていたことがあるらしい。

日本とタイは全然違うんだけどなぁと内心思いながらも、彼女の話に耳を傾けた。

何でもタイ人の元カレはかなり情熱的だったらしく、毎日のように愛を伝えてくれたらしい。

私自身、初めての海外旅でタイに行き、タイ人の彼氏(らしき人物)が出来たことがあった為、彼女の話にはかなり頷けるところがあった。

彼らの恋愛に対する情熱はこちらが顔を赤らめるくらい直接的である。

結局彼女も私も物理的距離には敵わず、なし崩し的に破局してしまったという点まで同じだった。

まさかブダペストのサウナで恋バナをするとは、、、

旅とはつくづく面白いものだなと改めて実感した日であった。

 

 

ウィーンーブダペスト間の車窓から

 

オーストリア ウィーン① 接吻

バッドゴイスラムに別れを告げ、列車でウィーンへと向かった。

ヨーロッパの駅のホームは未だに慣れない。

駅には基本的に改札がなく、列車内で車掌が切符の拝見をして回るのだ。

なので短距離を乗る場合だと、車掌とかちあう前に乗降出来てしまう。

これはトラムの時も同様だ。

トラムだと基本的に短距離なので、無賃乗車を試みる輩が多い。

私はそんな無賃乗車マンが失敗して、しぶしぶお金を払うのを何度か見てきた。

 

ウィーンまでは列車で3時間30分で着いた。

今夜の宿はa&t Holiday Hostel。

1泊3,500円程度とウィーンにしては安いのだが、今回の宿選びは失敗してしまった。

市街地からかなり遠く、トラムを使わないと30分以上歩く必要があるのだ。

私はトラムが大の苦手である。

2回に1回は間違った行先のものに乗ってしまう。

それに、ユーレイルパスの適用外ということあって乗車賃をわざわざ払うのが惜しいというのもあった。

 

そういうわけで、私は40分かけて市街地へと向かった。

町を散策するときに特に気にしているのは、宿周辺の治安の良し悪しである。

安い宿はあまり治安がいい場所に建っておらず、大体移民街の近くである。

決して人種で判断したくはないが、移民街では路上で寝る人も多く夜間の治安はあまりいいとは言えない。

ウィーンは中央駅を境に、北は美術館や高級ブティックなどの繁華街エリア、南はイスラム系の移民エリアとほぼ完全に分かれている印象を受けた。

私の宿は南側にあったので、夜はなるべく早く帰ろうと急ぎ足で市街地へと向かった。

 

ウィーンに来た唯一の目的は、クリムトの接吻を見ることである。

しかし、世界中から来た観光客で混み合った館内ではとても静かに鑑賞することは出来なかった。

一体いつから絵の前でセルフィーが出来るようになったのだろう。

スマホを片手にレンズ越しに絵を鑑賞する姿を見て、私はうんざりしてしまった。

結局接吻もちらっと見ただけで、足早に美術館を後にした。

 

ウィーンの街並みはどことなく既視感があった。

ドイツ語が公用語というのもあるのだろう。

ベルリンと似ているな、とどこを歩いても思ってしまった。

心地よい天気で、公園では大勢の人が芝生の上で思い思いに過ごしていた。

私もそれに混じって公園で寝っ転がった。

 

次はどこに行こう。

クリムトの接吻も見てしまったし、ウィーンは1泊で十分な気がしていた。

ここから一番近いのはハンガリーだ。

だが、南へ行ってスロベニアを経由してクロアチアに行くという選択もある。

私はこの旅ではすべて陸路をとることにしていたので、目的のない国を経由することは出来るだけ避けたかった。

また、クロアチアに行ってしまうと、そこから東へ行くのが難しくなってしまう。

ボスニアヘルツェゴビナセルビアなどのバルカン半島は治安があまり良くない。

それにバルカン半島を旅行したことのある人から聞くに、あまり目ぼしい観光地がないようである。

考えぐねいていると、ふと名案が頭に浮かんだ。

ハンガリーには温泉がある、はずである。

温かいお風呂!

日本に出てからシャワーだけで、しばらく湯舟に浸かっていなかった。

私はお風呂に飢えていたのである。

そういうわけで、明日は一路東へ進み、温泉に入りにいくことにした。

 

ウィーン 公園

 

オーストリア ハルシュタットとバッドゴイスラム② 5フィンガー

翌朝は、ハルシュタットよりさらに山奥の町へと向かった。

いくつかのケーブルーカーを乗り継いで山頂へ上ると、5フィンガーという展望台がある。

ケーブルカーを降りると誰もがこぞって展望台を目指すのだが、展望台まで行かなくとも周りを見渡せばいつでも絶景を拝むことが出来た。

空との距離が近くなり、雲が同じ目線にある。

下を向くと、高山でしか生息しない草花が広がっている。

まるで天国のような光景だった。

 

隣を歩いていたカップルが歩道を少しはずれて腰を下ろすと、持参してきたリンゴやパンを広げて、絶景の前でピクニックを始めた。

私はそんな2人を心の中で羨ましいなと思ってしまった。

この壮大な絶景の感動を分かち合う人がいないことに、猛烈な寂しさを感じてしまったのだ。

旅を始めてすでに18日が経っていた。

旅立つ前は平気だと思っていた一人旅も、少し心もとなくなってきた。

1人でいるときは孤独を感じないが、集団の中に1人でいると孤独を感じる。

これは日常生活でも旅の中でも不変の真理であるとひとりごちた。

 

5フィンガー



オーストリア ハルシュタットとバッドゴイスラム① 湖畔の町

翌日は乗り合いのシャトルバスに乗り、オーストリアハルシュタットへと向かった。

バスはすぐに高速に乗り、4時間ほどで到着した。

990チェココロナ。日本円で約6,000円である。

電車で行くことも出来たのだが、乗り換えが多くて1日で到着するのが難しく、宿泊代を節約するためにもバスを予約した。

 

バスから降りると、そこにはきれいな湖畔と湖を取り囲むようにして美しい山々が広がっていた。

山の頂上あたりはまだ雪が残っているらしく、ところどころ雪化粧をしていた。

私はコインロッカー代節約の為に、大きなリュックを背負ったまま周囲を散策した。

町の中心地には、山の頂上に行くロープウェーが運航していた。

だが私はその運賃を節約するため、バックパックを背負って頂上まで約1時間30分の登山を観光した。

他の人の何倍も苦労して上った分、頂上からの景色は人一倍であった、と思いたい。

 

山奥の為、夏だというのに羽織が1枚いるほど涼しかった。

湖に足をつけると、冷たい水が身体を芯から冷やした。

私は登山を終え、湖畔でしばらく休憩したら、今夜の宿へと向かった。

本来はハルシュタットに泊まりたかったのだが、町にはペンションしかなく、かなり高額であった。

私はあきらめて隣町のバッド ゴイスラムをの宿を予約することにした。

隣町といっても決して安くはなく1泊36€で5,600円もする。

60代くらいのオーナーがかなり丁寧に観光案内をしてくれた。

どうやら今日行ったハルシュタットのさらに奥に高山があり、ケーブルカーに乗って雪山の景色を楽しむことが出来るらしい。

私は彼の熱意におされて、急遽延泊することにした。

 

夜ごはんは同部屋のアメリカ人の女の子と食べることになった。

彼女は大学生で2週間友達と旅行した後、1人だけ残って旅を1週間ほど続けているらしい。

1人旅は楽しいけれど、ご飯が大変いう彼女の意見に私は大いに賛成した。

ご飯どき、特に夜ご飯は1人で食べると寂しい。

異国の地であればなおさらである。

我々は久しぶりのノンボッチ飯にビールで乾杯をした。

 

夕食の後は1人で散策をした。

バッドゴイスラムは山と山の間に流れる小さな川沿いの町だ。

マンションやビルはなく、川沿いに小さな古民家が立ち並ぶ、自然豊かな町を私はたちまち好きになった。

辺りが暗くなり、道に迷いかけていると、宿の主人が犬を連れて散歩をしていた。

迷ったみたいだと伝えると、代わりに一緒に犬の散歩をしないかと誘われた。

彼の犬はゴールデンレトリバーで名前はスキッパーと言うらしい。

スキッパーは川に入ろうとしたり、川辺の花を食べようとしたりと、元気いっぱいであった。

宿の主人は散歩中、ご近所さんと何どか立ち話をしていた。

私も覚えたてのドイツ語の挨拶をすると、微笑み返してくれた。

オーストリア公用語はドイツ語だ。

英語と似ているので、聞き取れるかなと耳をそば立てていただが、壊滅的に聞き取ることは出来なかった。

やはり英語は英語。ドイツ語はドイツ語である。

宿に戻ると1階のバーで1杯ビールをおごってくれた。

 

初めてのオーストリアでたくさんの人と触れ合うことができた。

お酒の勢いも借りて、私はベッドに戻るとすぐに眠りについた。

バッドゴイスラム 静かな小川

 

チェコ チェスキークルムロフ③ お祭り

今日はいよいよお祭りの日だ。

お祭り自体は3日間行われるのだが、少しでも節約するために初日だけ参加することにした。

お祭りの期間中は、宿の値段が跳ね上がるのだ。

滞在中のホステルは空きがないということだったので、町から少し離れたペンションに泊まることにした。

この旅初めての個室である。

1泊10,000円とかなり値が張ったが、背に腹は代えられない。

セルフチェックインを終え、いよいよ祭りへと繰り出した。

 

町では、ルネサンス時代の衣装に身をつつんだ地元民が思い思いの時間を過ごしていた。

男性は騎士の恰好をし、女性は長いスカートを履いた町娘の恰好だ。

衣装のクオリティがとても高く、城下町の建物も相まってまるでルネサンス時代にタイムスリップしたような雰囲気を感じることが出来た。

そして最も感銘を受けたのが、彼らが携帯しているカップである。

ただのカップではない。

当時のものを模して、角をくりぬいて取ってを付けたようなカップである。

彼らはそれを常に携帯し、マートで買ったドリンクや露店で買ったビールなどを、わざわざそのカップに移しかえて持ち歩くのである。

そのくらい細部まで、彼らは徹底した仮装をしていた。

 

町では至る所でイベントが開催されている。

大きな広場では、数十人が輪になってフォークダンスのようなものを踊っていた。

それはまさしく私がプラハの公園で見たフォークダンスであった。

お城にも初めて行った。

門の前のお堀には真っ黒な熊が3頭いて、気だるそうに堀の中をうろうろしていた。

日本ではお堀は川に鯉が定番だったので、私はかなり驚いてしまった。

お城からの展望は、プラハ城と同様素晴らしいものだった。

オレンジ色の屋根屋根。ここではそれに加えて山の緑色が鮮やかであった。

 

夜にはルネサンス風ロックバンドの野外コンサートが開催された。

ラストコールが終わると、町中の建物からぽつりぽつりと灯りが消え始める。

いよいよフィナーレのたいまつのパレードが始まった。

仮装した住民がたいまつを持って町を行進している。

楽器隊も交じって演奏し、音楽に乗って楽しそうに闊歩している。

その姿はとても愉快であり、なおかつ神秘的であった。

 

祭りの後はいつもさみしい。

静まり返った町を背に私は宿へと戻った。

3日間の滞在とお祭りと個室の部屋は私の心を芯から癒してくれた。

そして恐らく最初で最後であろう個室で思う存分く寛ぎ、明日に備えて就寝した。

お祭りの最後のパレード