鈍行列車 ヨーロッパ編

欧州2ヵ月一人旅

チェコ チェスキークルムロフ② 緑とオレンジ

今朝は早起きして、スーパーで食料を買い込み、町はずれの丘へと登った。

昨日の散歩中にふと顔を上げると、町の南側の小高い丘にポツンと家が建っているのに気付いた。

調べてみると、どうやら教会が立っているようだ。

高さ的に町を一望出来るに違いない。

そうにらんだ私は、そこで一人ピクニックをしようと思い立ったのだ。

 

教会までの道のりはかなりの急勾配であった。

やっと頂上へ着いたときは額に汗をかいていた。

教会は中央の天井が丸く開いており、外へと吹き抜けになっており開放的な雰囲気があった。

壁にそって教会の歴史を伝える写真と短い説明書きが展示されている。

観光地ではないらしく、小さい教会に2~3人の人が思い思い過ごしていた。

私は地元の人に倣ってイエスの前で目を閉じてお祈りをした後、遅めのお昼を取ろうと、外に出てベンチに腰掛けた。

ベンチは町に面して設置されていたのだが、眼下に広がっていた光景は私の予想通り素晴らしいものだった。

小高い丘から見てみると、町が山に囲まれているのが明確にわかった。

ぐねぐねと湾曲した川に沿ってオレンジ色の屋根屋根がひしめき合っている。

緑と水とオレンジのコントラストが鮮やかであった。

 

2時間ほどはいただろうか。

そろそろ町に戻ろうと思い、来た道とは反対側の下山道に進んだ。

この丘は何百年も前から東西の分岐点として機能して来たらしい。

丘を起点に2つの道が東西に分かれており、町と町をつなぐ中継地としての役目と巡礼の道としての役割を担っていた。

私が西へ降りる道を進んでいくと、そこにはのどかな牧草地が広がっていた。

ところどころに巡礼者のための祠が建っており、祠の屋根までもがオレンジ色で、牧草地の緑と見事なコントランストを生み出していた。

 

夕方宿で1人で夕食を食べていると、50代くらいの男性から声をかけられた。

彼はハンガリー人であったが、空手有段者で俳句を詠むという大の日本好きであった。

明日のお祭りのために毎年訪れているらしく、私が丘の上の教会に行ったことを伝えると、そこはベストプレイスだと太鼓判を押してくれた。

普段他のゲストと話す際、どこへ行ったとかこれからどこへ行くとか、そういう話しかしないのだが、彼はどういうわけか仕事の話を始めた。

彼は今ある未解読文字を研究しており、最近になって解読出来たらしい。

今度本を出版するのだそうだ。

しかし、私はそんなすごい人が町で一番安いホステルに泊まるだろうか、と彼の話を半信半疑で聞いていた。

嘘か本当か真偽のほどは定かではないが、たとえ嘘だったとしても、その夜は旅のことを忘れて、ふつうの気楽な会話を楽しむことが出来た。

巡礼の道

 

チェコ チェスキークルムロフ① 川に囲まれて

プラハの町に満足した私はさっそく次の目的地を探し始めた。

プラハから西へ行くと、カルロビ・バリという古い町並みと温泉が有名な場所があるらしい。

ただしドイツにかなり近づいてしまう。

ドイツに戻ることは考えていなかったので、ここは一路南へ進むことにした。

チェコの南側オーストリア国境にほど近い場所に、川沿いの城下町チェスキークルムロフがあるらしい。

私はこの旅初めてのバスに乗り、チェスキークルムロフへと向かった。

 

1,200円ほどでチケットを購入し、バスに揺られること数時間。

目的の町へと到着した。

降りてすぐに感じたのは草木の匂いである。

チェスキークルムロフは四方が山に囲まれている。

私はこれまである程度の都会ばかり訪れていたので、久しぶりの緑の香りに嬉しくなった。

今夜の宿は「Hostel99」

1泊4,000円と決して安くはない。

都会は人が多いが宿は安い。

地方は人は少ないが、宿は高い。

一長一短である。

ただし、ホステルの名誉のために言わせてもらうと、そこは確かに4,000円の価値はあった。

レトロでかわいらしいログハウス風の建物に、趣のあるベッドが整然と並べてある。

なにより驚いたのは、ドミトリーだと言うのに、2段ベッドではく、シングルベッドなのである。

私は2段ベッドが嫌いというわけではないが、上段ベッドをあてがわれてしまうと、移動やちょっとしたものを取るのに苦労してしまうのだ。

もちろんシングルベッドにはカーテンなどはなかったが、それでも久しぶりの普通のベッドに興奮してしまった。

 

チェスキークルムロフは、川に囲まれた静かでこじんまりした町だった。

私はこれまでの旅の疲れを癒すかのように、のんびりと散策することが出来た。

町の中心の広場へ行くと、どうやらステージの設営をしている。

近くに貼ってあったポスターを見ると、どうやら明後日からお祭りが始まるらしい。

お祭りは2日間あるのだが、なんとその期間はお祭りの入場券がないと町に入れないのだそうだ。

私はもともとは明日までの滞在予定だったので問題はなかったのだが、たまたま寄ることにした町でたまたまお祭りが開催されることに運命的なものを感じた。

私は滞在を延長し、明後日から始まる「5弁のバラ祭り」に参加することにした。

 

川にぐるっと囲まれている

 

 

チェコ プラハ② オフライン旅

翌日は同部屋の日本人女性とプラハ城へと向かった。

彼女は私と同様チェックインしたばかりで、たまたまベットが隣同士であった。

最初はお互い英語で話していたが、彼女の英語のアクセントに聞き馴染みあったので、日本人ですかと聞くと、まさしくその通りであったのだ。

今はイギリスで働いているらしく、チェコでの物価の安さに驚いていた。

翌日同じ場所に行くというので、話の流れから一緒に行くことになった

 

2人でトラムの駅を探していると、さっそく面食らってしまう出来事があった。

彼女が携帯で時刻表を調べ出したのである。

私がオフラインの携帯しか持っていないということもあるが、個人的には電車の時刻表を調べるのがあまり好きではない。

数時間に1本の列車でもなければ、わざわざ時刻表に合わせて行動したくないのである。

彼女はもう少しで目的地までのトラムが到着すると言い、小走りになった。

私も合わせて走ってはみたが、その時点で多少嫌気が差していた。

1本乗り遅れてもまた次のに乗ればいい。

間違ったものに乗ったら乗ったで、予想外の素晴らしい光景に出会えるかもしれないのに。

私はその言葉をぐっと飲み込み、時刻表を調べてくれた彼女に礼を言ってトラムに乗り込んだ。

 

プラハ城へ着くと、お城の中を見ると言う彼女に別れを告げ、宿でまた会おうということになった。

お城の入館料を節約したかったというのもあるが、一刻も早くひとりで気の向くままに行動したかったのである。

 

しばらく城壁内を散策していると、大きな建物の前に人だかりが出来ている。

見物人に聞いてみると、どうやら守衛によるパレードらしきものが始まるらしい。

数分後、遠くのほうからラッパの音が聞こえ始めた。

音楽隊がマーチングをしながら広場に整列する。

すると、今まで守衛をしていた男性が聴衆に踵を返し、音楽隊に合流する。

さらに音楽隊の中から1人が進み出て、門の前に立ち守衛となった。

たったそれだけのことであった。

けれども聴衆は拍大きな拍手をし、門番の彼もまんざらでもなさそうに胸を張ってその拍手を受け入れた。

拍子抜けした私は、入場料のかかる塔や博物館をスキップして、そそくさとお城を後にした。

 

プラハの町は噂で聞く通り、美しい町であった。

特に建物の屋根が全てオレンジ色で統一されており、お城から見下ろす眺望は素晴らしかった。

しかし私にはどこか物足りない感じがした。

町が完成され過ぎてる。

博物館にも行ってみたが、外観も内観も完膚なきまでに美しいのである。

どこにも隙がないので、何だか温かみがないような気がしてしまう。

 

夕暮れのライトアップされた町を見ると、私はすぐに宿へと帰った。

宿のまわりは住宅街ばかりだ。

人によっては雑多で美しくないと感じるかもしれないが、私は何故だがホットした。

私は人の温もりを感じれるふつうの街並みのほうが好きなのだなとつくづく実感した。

プラハ城の広場 守衛のマーチ

 

 

 

チェコ プラハ① Shall We Dance?

電車に揺られること7時間。

ついにプラハへと到着した。

 

車内では実に楽しいものを見せてもらった。

私の3つほど前の席に、偶然乗り合わせた若い男女がいた。

男性が女性に話しかけたことをきっかけに彼らは破竹の勢いでしゃべり始めた。

私は好奇心から、読書をやめて彼らの会話に聞き耳を立てた。

どうやら男性のほうはクラクフからプラハの家へと帰る途中であること。

女性のほうはドイツの大学生でプラハへ旅行に行くらしいことが聞き取れた。

2人の英語がとても速く、完璧に聞き取ることは出来なったが、彼らが互いに惹かれ合っているのは誰が見ても明らかであった。

その様子を見ていると、ふいに「ビフォアサンライズ」を思い出した。

ヨーロッパの長距離列車で偶然乗り合わせた2人が、ある町で一緒に降車することを決め、朝日が昇るまでともに過ごすという映画である。

3列前の彼らもどうやらプラハで落ち合う約束をしているらしい。

私はラブロマンスの序章を観れた気がして、満足した気持ちでプラハ駅に降り立った。

 

今夜の宿は「Clown and Bard Hosetl」。

6人部屋で1泊435チェココルナ、日本円にして2,770円である。

ポーランドに続き、チェコも独自の通貨を使用している。

やはり自国の通貨を使用している国はユーロ圏内の国と比べて、幾分物価が安いような気がして安心した。

 

チェックインすると近所をあてもなく物色した。

宿は市街地から駅をはさんで反対側にあったので、周りは住宅だらけであった。

私はアパートの1階に入っている感じのよい店を見つけ、おもむろに入ってみた。

公園に面してテラス席に座り、私はビールと牛肉のワイン煮にダンプリングを頼んだ。

ダンプリングはクラクフで食べたことがあったので、安心して頼んだのである。

しかし出された料理はまったくの別物であった。

牛肉のワイン煮のお皿に丸いパンのようなものが添えてある。

どうやらこれをダンプリングと言うらしい。

恐る恐る食べてみたが、これが正解であった。

もちもちとした食感のパンはメインの料理とよく合い、私はあっという間に平らげてしまった。

お会計をしようと店内に戻ると、列車の中で見た青年がカウンターに一人で座っていた。

隣に彼女の姿は見当たらない。

彼女と会えなかったのだろうか。それとも今から会いに行くのだろうか。

私は心の中でそっと彼にエールを送った。

 

店を出ると、夜の8時を回っていた。

日の長いヨーロッパではやっと夕暮れ時である。

目の前の公園では10人くらいの男女がフォークダンスの練習をしているらしい。

ベンチに腰掛けその様子を見ていると、先生らしき30代ほどの男性が近づいてきた。

彼は私に右手を差し出した。

Shall We Dance?」と言われたかどうかは覚えてないが、このシーンに吹き込む言葉はそれ以外見つからない。

私は彼の引く手に身を任せ、ワンツーワンツーとリズムを合わせる。

そうして、なんとかイーグルスの「ホテルカリフォルニア」に合わせてダンスを踊りきることが出来た。

ダンスが終わるとみんなで拍手をして解散した。

チェコ初日にしては出来過ぎくらい良い日であった。

そして列車の中で出会った彼らも、今頃再会して良い日を過ごしていてほしいと願わずにはいられなかった。

プラハ 住宅街の公園

 

ポーランド クラクフ④ 日曜市と花粉症

今日は朝から鼻の調子が悪い。

花粉症がますますひどくなっている。

私は鼻をすすりながら、今日は町をぶらぶら散歩することにした。

 

日曜日はどこかしらの路上でフリーマーケットをやっている。

私は地元の人に交じり、骨董品や古着を見て回った。

特に興味を引いたのは、古い切手やポストカードを売っている店だった。

店と言っても、折りたたみテーブルに切手や何とも分からない骨董品などを並べているだけなのだが、どうやら掘り出し物の匂いがプンプンする。

しばらく眺めていると、店主の老人が話しかけてきた。

彼は古い切手やポストカード、昔の通貨を収集しているらしい。

店頭に並んでいるだけでもかなりの量があるので相当な収集癖だ。

なかでも目を引いたのは、ヒトラーの横顔に鍵十字のスタンプが押されたポストカードだ。

1939年から終戦までのわずか6年間使用されたものだ。

15ゾルチと値は張ったが、ポストカードに秘められたナチスの罪深さやポーランド人たちのやるせ無さを思うと、不思議と高いとは感じなかった。

 

その後は教会やユダヤ人街、名作「シンドラーのリスト」で有名なストリートや工場跡地の博物館を見て回った。

ユダヤ人街のなかにあるシナゴークは、入場料をケチって行かなかった。

 

町をぶらついていると、だんだんと目がかゆくなり、ついには充血して真っ赤になってしまった。

一旦宿に戻り、どうしようかと考えていると、初日に喋ったトラックドライバーに会った。

よほど私が弱っているように見えたのだろう。

調子が悪いのかと聞かれ、恐らく花粉症だと思うと答えると、目薬を貸してあげようかと言う。

私が丁寧に断ると、遠慮していると思ったのか、同部屋の誰かが薬を持っているかもしれない、今から聞いてくるから待ってろと言う。

私はいくら親切心からでも他人からもらった薬は飲めないと思い、本当に大丈夫だと伝えると、彼は「お前は本当に日本人だな」と首をすくめた。

私は少し馬鹿にされたような気になり、むきになって「そうだ。これが日本人の美徳だ。」と言ってのけた。

そして私は自分で名言してしまった日本人の美徳とやらを守るために、ふらふらの足取りでなんとか近くのファーマーシーに駆け込み、花粉症の薬を手にしたのであった。

 

夜はドラゴン伝説で有名らしい、川沿いのドラゴン像を見に行った。

一定の時間間隔で口から火を噴くらしく、大勢の人が集まっては散ってを繰り返していた。

近くのベンチに座ってその様子を見ていると、突然後ろから大きな音がした。

川のほうに振り返ると、大きな花火が打ちあがっていた。

私はクラクフでの滞在に満足し、そろそろ次の国へ行こうかと重たい腰を上げて帰路へと着いた。

クラクフの夜空



ポーランド クラクフ③ アウシュビッツ

今日は前日にネットから予約したアウシュビッツ強制収容所へのツアーを予約した。

ツアーと言っても最安値のものでクラクフからの往復のバスと解説パンフレットを渡されるだけである。

自力で行くことも出来るが、当日券が現地で買えるかどうか分からないのと、アウシュビッツだけでなく、ビルケナウという別の強制収容所へも連れて行ってくれるのが魅力的だったので、ツアーへ申し込んだ。

119ゾルチ。日本円で3,500円前後なのでかなり痛い出費である。

思うに、旅にはさほどお金がかからない。観光にお金がかかるのである。

ホステルでは四六時中ベッドでゴロゴロしているバックパッカーがいる。

彼らはお金がかかる観光を諦め、一日でも長く旅を続けるためにどこにも出かけず節約しているのだろう。

一見矛盾しているようだが、彼らの気持ちも分かるような気がした。

 

ビルケナウ収容所は、あの「ARBEIT MACHT FREI」「働けば自由になる」の看板で有名である。

看板のある門をくぐってみると、レンガ造りの建物が広がっていた。

建物のあいだにはかつて処刑場があったモニュメントがあり、たくさんの花が供えられた。

展示品と一緒に当時の写真や説明文が添えられていた。

あまりのショックに圧倒され、写真を取ることは憚られた。

 

バスは次の目的地のアウシュビッツへと到着した。

ここはクラクフから続く強制収容所行の列車の終着駅である。

線路は最終的にガス室のとなりまで沿線され、選別されたユダヤ人たちが、"効率的に"処分されていったのだ。

そこには教科書では分からない、陰鬱とした雰囲気を今でもなお肌で感じることが出来た。

アウシュビッツ 終着駅

 

ポーランド クラクフ② ショパンとパン泥棒

到着した夜は、ポーランド名物のダンプリグを食べた。

ダンプリングは水餃子のようなもので、様々なトッピングで楽しむことが出来る。

私はトマトソースのものを頼んだ。

1皿40ゾルチ。日本円で1,200円程度する。

クラクフの旧市街の美しさに浮かれて、少々奮発してしまった。

 

夕食を終えて、旧市街をぶらぶらしていると小雨が降ってきた。

雨宿りがてら、目についたレトロな建物の軒下に入る。

どうやらアパートではなく、部外者でも中に入れるらしい。

おそるおそる足を踏み入れてみると、美しい螺旋階段が上階へと伸びていた。

写真を撮ろうと、カメラを覗くと1人の老人が顔を出してこちらに手招きをした。

引き寄せられるように2階へ行くと、そこには1台のグランドピアノと椅子が並べらている小さな部屋があった。

彼によると、その部屋で毎晩ショパンのコンサートを行っているらしい。

値段を聞くと、80ゾルチ。日本円にすると2400円程する。

かなり迷ったが、老人のフランクな物言いが非常に好印象で、ここ数日ワルシャワで浮いた宿泊費の後押しもあり、チケットを購入した。

 

コンサートまでの間、旧市街をあてもなくぶらついた。

雨に濡れた広場はとても美しく、観光客用の馬車をひいているポニーたちが暇を持て余したように草をはんでいた。

すると、10人ぐらいのグループの西洋人の若者が、広場の真ん中に集まりだした。

何をするのかと見ていると、彼らは雨の中大声で歌い出した。

バックストリートボーイズの「I Want It That Way」。

あまりにも有名な曲なので、周りの人たちもノリ始める。

ショパンで有名な美しい旧市街の広場で聞く90年代のポップソングは、そのアンバランスさゆえに広場では際立って響いていた。

 

コンサートは聞き馴染みのある曲ばかりで非常に楽しかった。

ただ1つ面白かったのが、ピアニストが本職の人ではないことが明らかだったことだ。

もちろん彼のピアノのスキルは素人目からみても素晴らしかった。

実は開演5分前に急ぎ足で客席をよこぎる、大学教授のような恰好の男性がいた。

5分後、白いシャツと黒いチノパンでステージに現れたのが、その彼であった。

おそらく、どこかでピアノの先生をしているか、もしくは全く関係のない仕事をしているのだろう。

そのことを想像すると、彼の奏でる旋律に哀愁を感じてしまい、より一層奥深く聞こえてしまうのが不思議であった。

 

ダンプリングだけではお腹が好いてしまったので、夜食に10枚切りのバケット白身魚のお惣菜を買って宿に帰った。

キッチンで夜食にありついていると、50代くらいの女性が話しかけてきた。

どうやら英語が話せないらしい。

ジェスチャーで判断するに、どうやらパンを1切れくれと言っているらしい。

貧乏旅行の為気乗りはしなかったが、断るのも面倒くさいので1切れあげた。

するともう1切れくれという。

私は仕方なくもう1切れ渡し、これ以上は無理だと両手をあげた。

おばさんは満足気に礼を言い、奥の席でパンを食べ始めた。

 

私は普段から複数泊滞在するときは、キッチンに食料を置くことにしている。

ただしこのときばかりは、どうしようかと迷った。

誰かに勝手に食べられるかもしれないという予感がしたのだ。

しかし迷ったはいいもののドミトリー内にはあまりスペースがない。

結局最低限の予防策として、マジックで大きく名前を書き、人目につかない奥のほうへパンと総菜を押し込んだ。

 

翌朝、朝食を食べようとパンを取り出すと、やはり悪い予感は当たっていた。

10枚切りのパンを買って、昨日食べたのが2枚、おばさんに渡したのが2枚。

残りは6枚のはずである。

だが、どう見ても残りは4枚。

パン泥棒が悪事を働いたのは明白である。

こんなことをするならば、昨夜のおばさんのように図々しいけれど聞いてくれたほうが幾分ましだ。

最も泥棒の犯人は、あのおばさんかもしれないが。

そして私はこの日からどんなに食べかけのものでも、自分のベッドで保管することを心に誓った。

ショパンのコンサート会場で手招きする老人