鈍行列車 ヨーロッパ編

欧州2ヵ月一人旅

ポーランド クラクフ① ウクライナのトラック野郎

今朝は、ワルシャワから電車でクラクフへと向かった。

クラクフは正式に発音すると「クラコー」と言い、旧市街地や旧ユダヤ人街が有名である。

またアウシュビッツ収容所が近いこともあり、クラクフから収容所へいくツアーも散見された。

 

クラクフグローリー駅に着くと、またしても鼻がかゆくなり、今度は目までかゆく充血してきた。

いよいよ花粉症が本格的に発症したらしい。

恐らく街路樹に植えてあるマロニエの花粉であろう。

マロニエが風に吹かれるたびに、白い花がまるで絨毯のように歩道を埋め尽くしている。

私は恨めしい気持ちで、白い絨毯を踏みしめながら宿へと向かった。

本日の宿は「Lorf Hostel&coffee」。

10人部屋の女ドミで1泊14ズルチ。

旧市街から約10分と考えると、非常に手頃な値段であった。

 

チェックインして宿の喫煙所でタバコを吸っていると、20代前と思われる男性が近くに来た。

何となく黙ったままいるのが気まずくなり、どちらともなく話始めた。

聞くところによると、彼はウクライナ出身のトラックドライバーでクラクフには仕事で来ているそうだ。

私が適当に相槌を打っていると、本当はロシアと戦いたかったが、目が悪いため兵役に就くことが出来なかったと彼は慌てて付け加えた。

私は彼が兵役に出ていないことを非難する気持ちなどこれっぽっちもなかったが、その慌てようから察するに、ウクライナ国内では居心地のよい立場ではなかったのかもしれない。

 

何となく複雑な気持ちで部屋に戻ると、50代くらいの同部屋の女性が声をかけてきた。

いつものように互いに自己紹介をし、どこから来たのかという話になった。

彼女は実はクラクフの出身なのだが、部屋探しをしている間ホステルに泊まっているのだそうだ。

普通ならすぐに部屋が見つかるのだが、ウクライナ人のせいでどこもアパートがいっぱいで手頃な部屋が見つからないのだそうだ。

2022年のロシアによるウクライナ侵攻により、大勢のウクライナ国民が隣国のポーランドへと非難した。

彼らはワルシャワクラクフで安いアパートを借りて住み始め、1年以上経った今でもその状態が続いているのだそうだ。

私は内心、ウクライナの人を責めるのはお門違いだろうと思ったが、口には出さなかった。

ロシアとウクライナの問題は日本人から見れば、遠い国のニュースで見るお話だが、彼女にとっては日常に存在する問題なのである。

意義を唱えることなどもっとお門違いだと、私は自分の心を諫めた。

 

宿の近くのYMCA 今は映画館となっている

 

ポーランド ワルシャワ② 群青色の夜空

ワルシャワの旧市街はわりと小じんまりとしていた。

私たちは彼の友人と合流し、みんなでタイ料理を食べてシーシャを吸った。

ポーランドは自国の通貨ズルチを使用しており、物価は日本と同じか日本よりやや高めである。

例えば、タイラーメンは25ズルチで日本円で約900円。

観光地価格を考慮しても決して安いとは言えない金額である。

 

シーシャバーを出て空を見上げると見事な青色の夜空であった。

青というよりは群青色に近いかもしれない。

それは私に香川県の直島にある、ジェームズ・タレルがつくった芸術空間を思い出させた。

建物がまるで額縁のように空を縁取っている。

芸術的と言っていいほど洗練された群青色の夜空であった。

 

翌日はショパン銅像で有名な公園を散歩したり、公園のなかのリスを探したり、電動キックボードに乗ってみたり、まるで地元民のように町を2人でぶらついた。

電動キックボードは今は日本でも走れるようになったが、当時のヨーロッパすでに町の至るところでその姿を見ることが出来た。

予めアプリで登録しておくと、キックボードについたQRコードを読み取るだけで決済可能。しかも町中にあるどのスポットにも乗り捨て出来るとあって利用者はかなりの数がいた。

本来2人乗りは禁止であるが、周りを見渡してもそんなことを気にしている人は誰1人いない。

私は彼の後ろに乗って、ワルシャワの川沿いのドライブを楽しんだ。

 

さてワルシャワの川というのは、地元民から見れば単なる川ではない。

それは夏になると海の代わりになり、川沿いはまるでビーチのようにたくさんの仮設バーや船上バーが立ち並ぶ。

ポーランド人のお酒好きー特にウォッカ好きーは有名であるが、川で飲んだくれる光景にはさすがに驚いてしまった。

ポーランドはその国土の三方をが他国と接しており、海に面しているのは北部のみである。

ワルシャワは内陸なので、いわゆる海なし県だ。

そういうわけで私のポーランド人の印象は酒飲みの海好きである。

そしてその印象は後に訪れるギリシャでさらに確信に変わっていくのであった。

 

ワルシャワ 旧市街

 

ポーランド ワルシャワ① 旧社会主義国

翌日はベルリンから長距離列車に乗り、ワルシャワへと向かった。

鉄道会社はDBからポーランドの列車に変わった。

変わったのは鉄道会社だけではない。

エアコンが姿を消し、代わりに大きな開閉式の窓がついた。

 

窓を右から左に流れる景色は見事な田園風景だ。

ドイツもポーランドシェンゲン協定加盟国なので、入国手続きはとくにない。

それでも田園風景の中にふいにポーランドの国旗が見えたとき、ああ国境を超えたのだなとしみじみと感じた。

シェンゲン協定とは、ヨーロッパの国家間において出入国の審査をせずに自由に移動できるという協定であり、ほとんどの国が加盟している。

ただし180日のうち最大90日間という制約があり、90日を過ぎるとその後数か月は協定外の国で過ごす必要がある。

長旅のバックパッカーが非シェンゲンのルーマニアなどの東欧に行ったり来たりするのはそのためである。

 

ワルシャワではある人と会うことになっていた。

3年前に東北でヒッチハイクをしていた彼を乗せてあげたのが、我々の最初の出会いである。

1年前に日本で会った際、ポーランドへ留学していると聞いたので、この機会に連絡してみたのだ。

ワルシャワグダンスカ駅に着いたのは16時頃。

朝の10時にベルリンを出たはずなので約6時間電車に揺られていたことになる。

どうりで首や肩が凝っているはずだ。

 

ワルシャワグダンスカ駅は想像以上に何もない駅であった。

町なかの建物のつくりも非常にシンプルで社会主義時代の面影を残していた。

彼と合流し、今夜の宿へと向かった。

これから2泊、彼が住んでいるシェアフラットの空き部屋でお世話になる予定なのだ。

シェアフラットは古いアパートの一室を6人ほどで使っているらしい。

びっくりしたのは、アパートのエレベーターである。

エレベーターのドアが手動式なのである。

彼はそこに旧社会主義国らしいロマンを感じていたが、私にとっては灰色の無骨な旧式のエレベーターはロマンよりもホラーであった。

 

荷物を置いて外へ出ると、鼻が無性にむずがゆい。

聞いたところによると、ヨーロッパではこの時期花粉症の季節らしい。

私は今まで花粉症を経験したことがなかったので、彼の話を軽く聞き流した。

このときは、後々数週間にわたって花粉症が私の精神を蝕んでいくとは、思いもしなかったのである。

 

社会主義時代に建てられたマンションの窓から

 

ドイツ ベルリン② 落書きと吸い殻

ベルリンで一番驚いたのは、落書きの多さである。

どの建物も1階部分の外壁はほとんどと言っていいほど、落書きで埋め尽くされている。

有名なベルリンの壁も例外ではない。

落書きをされてはオーナーが消す。そして一夜明けると新しい落書きが姿を現す。

オーナーと落書き手のイタチごっこである。

そして勝者はたいていの場合落書き手である。

彼らの作品はベルリンの町のいたるところでお目にかかることが出来た。

 

そして落書きと同じくらい驚いたのは、町の至るところに落ちている吸い殻である。

ドイツでは通りの各ポイントにゴミ箱が設置されており、吸い殻入れももちろんある

にも拘わらず、道端の側溝や公園の芝生など様々なところに、しかも大量に吸い殻が捨ててあるのだ。

一度芝生のある公園を見つけ、寝っ転がろうと適当な場所を探していると、芝生の隅々に吸い殻が捨ててった。

とてもじゃないが、芝生に座る気になれず、ベンチに移動した。

外国人はよく日本は綺麗だと言うが、その意見に大いに納得できた瞬間であった。

 

ベルリンの壁ユダヤ人博物館などを1日かけて見て回った。

博物館は入館料が無料であり、ユダヤ篤志家などの寄付金で賄われているという。

展示品はホロコーストがどれだけ悲惨だったかを訴えかけていた。

だがそんな彼らは今パレスチナ人に対して迫害ともとれるような侵略行為を行っている。

歴史は繰り返す。

そんな陳腐なことを思わないでもなかった。

 

ベルリンの路地

 

ドイツ ベルリン① 地元客の絶えない店

デュッセルドルフで泊まった宿にはがっかりしてしまった。

私が宿泊したのは、a&oホステルというドイツ国内に何軒か展開するチェーンホステルである。

価格は10人部屋で€21。

最初に指定されたベッドはだれかに使われており、替えてもらった部屋はアウトレットが壊れていて、さらに同室のゲストが大音量でラジオを聞いていた。

夜の10時ということもあり、歩き疲れていた私はさらなる部屋の変更を諦めベッドに入ると、泥のように眠ってしまった。

 

翌朝は列車に4時間ほど揺られて一路ベルリンへ。

滞在先は中央駅から1駅離れたアレクサンダープラッツにある「PFEFFRBETT HOSTEL BERLIN」。

チェックイン時に2人組の日本人らしい若者がいた。

彼らの話す英語のイントネーションには聞き馴染みがあった。

一瞬話しかけようか迷ったが、やめておくことにした。

私はここ数日日本語での会話に飢えていたが、彼らはグループなのだ。

私が話しかけても邪魔するだけだろう。

そう思うことで人見知りの自分に言い訳をした。

 

今回の宿は初めてホステルワールドで予約した。

6人部屋一泊€22とホステルワールド経由での予約が最安値だったのだ。

ホステルワールドのメリットであり、デメリットであるのが、チャッティングルームというツールである。

同じエリアに滞在している者同士で、ラインのグループのようにチャットできるのだ。

初めてということもありチャットに参加してみたら、私はまったくの場違いであることに気づいた。

内容と来たら、どこのクラブがよかった、どこのバーが深夜までやっているなど。

要するにパーティーピーポーの集まりであった。

同部屋のブルガリアから来た2人組の女の子もその類であった。

チェックインしたとき昼下がりだというのに熟睡している女の子たちがいた。

後から聞いたところによると毎晩ダウンタウンへ繰り出しては朝までクラブで遊んでいるらしい。

せっかくベルリンに来たんだからと言いかけたが、やめておいた。

旅の仕方は人それぞれである。

 

バックパッカーには主に2種類のタイプがいる。

その国の歴史・文化に触れたいやつか、その国の異性と遊びたいか。

私はもちろん前者だったので、チャットルームかいち早く抜けて、夕食をとることにした。

 

宿の近くにおいしそうなカリーブルストのお店があった。

ドイツ語のメニューしかなかったが、英語とかなり似ているので何となく読むことができた。

私はカリーブルストとポテトのビールのセット€11.5を頼んだ。

カリーブルストとは、ソーセージにケチャップとカレー粉を付け合わせたものである。

シンプルな料理であるが、お店に寄ってまったく味が異なる。

実はマンハイムでもファーストフード店のようなところで食べてみたのだが、そこはソーセージがパサついており、全く味気がなかった。

しかしながら、今回のレストランは正解であったと断言できる。

やはりベルリンが発祥ということも関係しているのだろうか。

前回食べたカリーブルストよりも深い味わいがした。

店内には、家族連れやカップル、仕事帰りの男性などひっきりなしに入ってくる。

私がこの旅で得た教訓のひとつに、「地元客の絶えない店に行け」というのがある。

英語のメニューはない方が良い。

そこでは必ず地元の人が好むローカルの食べ物が美味しく、そのうえ安く食べれるからある。

日本にいるときは、お店探しにはグーグルを使っていた。

メニューを事前に確認したり、口コミをみたり。

だが、今の私のオフラインの環境にグーグルは存在しない。

そうなると、自分の足で行って自分の目で確かめてみるしかないのである。

昔の人もこんな感じで行きあたりばったりでお店を探していたのだろか。

時には人に聞いたりしながら。

私はヨーロッパに来てから、多少時間はかかるけれども、自分の足でお店を探すのも楽しいと思えるようになっていった。

そうして入ったレストランが安くて美味しかったときの喜びはグーグルで検索して見つけたときよりも何倍も大きいのである。

PFEFFRBETT HOSTEL BERLIN ドミトリー

 

ドイツ ケルン 魔の日曜日

ドイツ3日目。

この日はケルンへと向かった。

ケルンはあの荘厳な大聖堂で有名な町である。

駅を出ると、すぐそこに大聖堂がそびえ立っていた。

高校生のときに世界史の教科書で見たケルン大聖堂

噂のとおり、柱やステンドグラス手すりまでもが見事に装飾されたゴシック様式の教会であった。

だがそれよりも私が興味をひかれたのは、教会前の広場に出来た人だかりだった。

どうやら男が路上パフォーマンスをしているらしい。

彼は様々な国の国旗をチョークで描き、中央にウクライナの国旗と「Peace」の文字を添えた。

1年前の2月にロシアがウクライナへ侵攻し、たくさんの戦死者が出た。

そしてその戦争は今でもなお続いている。

ウクライナの国旗の上にチップを入れる箱を置いているあたり、まったくの正義感からパフォーマンスしているとは思えないが、胸打つものは確かにあった。

 

今夜の宿泊先のデュッセルドルフはケルンから電車で1時間もあれば着く。

日暮れまではまだ時間があったので、ケルン市内を散策することにした。

どこか安そうなレストランで昼食でもと思っていたが、いっこうに開いている店が見つからない。

それもそうである。

今日は日曜日であった。魔の日曜日である。

ヨーロッパでは日曜日はほとんどのレストランが休みになる。

日本人からしたら、せっかくの休日に開店しないなんてもったいないと思うかもしれないが、彼らからしたら日曜日に働くなんてありえないのだそうだ。

安そうなケバブ屋は何軒か見つけたが、2日連続でケバブは面白くないので、諦めずにケルンの町をどんどん西に進んで行った。

 

しばらくすると、左手に大きな公園が見えてきた。

近くまで行ってみるとどうやら巨大な墓地のようである。

お参りでもないのに不謹慎かなという思いもあったが、犬の散歩をしている人や自転車で敷地内を通り抜ける人がいたので、思い切って足を踏み入れていた。

墓地は想像以上に広く、何世紀も前に亡くなった人の巨大な墓や戦死者をまつったような共同墓地もあった。

巨大な木々から木漏れ日が差し込み、まるで森の中を散策しているような錯覚を覚える。

日本の清閑な墓地もよいが、自然の中にひっそりと共存するヨーロッパの墓地は、お参りにくる人々の心も癒してくれるのではないだろうか。

 

ケルン駅へと戻りながら、再び安そうなレストランを探しはじめた。

しかし営業中なのは、ケバブ屋か高級そうなレストランばかり。

まったく魔の日曜日である。

そうこうしているうちに駅に着いてしまったので、仕方なく構内のスーパーで昼食を買い、広場で食べることにした。

サラダボウルとビール。ご馳走ではないが食欲を満たすには十分だ。

ケルンではケルンビールが有名なそうなので、昼だというのにビールの小瓶を1本買ってしまった。

広場の階段に腰を下ろし、瓶のふたを取ろうとするがなかなか上手くいかない。

四苦八苦していると、後ろから声をかけられた。

彼らは瓶を渡してみろとジェスチャーをする。

私が手渡すと、彼らはライターを使って軽々と開けてくれた。

 

心地よい風が頬をかすめ、少しぬるくなったビールが喉を潤してくれる。

夕暮れに大聖堂の前で飲むビールは私の心を癒してくれた。

Melatenfriedhof 墓地

 

ドイツ マンハイム・ハイデルベルク③ 鐘の音

マンハイム2日目。

朝10時頃に宿のルーフトップでくつろいでいると、遠くほうで教会の鐘が鳴った。

この町の住民にとっては日常に溶け込んでしまう微かな音なのだろう。

しかし今朝の私の耳にはとても新鮮に響いた。

 

宿のお兄さんによれば、この宿はオープンして約1ヵ月らしい。

兄弟で運営しており、弟の彼が接客担当なのだという。

コロナが終わり、観光客が戻ってきた時機を見てやっと開業にこぎつけたそうだ。

しかし場所柄だろうか。

ゲストはドイツ人や近隣の西洋人が多く、アジア人は私だけのようだった。

 

どこから来たのか。

その声にふと顔を上げると、50代くらいの男性がこちらを見ている。

しばらく話を聞いたところ、彼はイラクから車の輸入関係の仕事で頻繁にドイツに来ているという。

マンハイムは何度も来ているので、美味しい店に案内してやると言う。

私は彼の言葉に乗り、一緒に宿を出た。

 

彼が連れて行ってくれたのは、ハラールフードのお店であった。

そうかイラクイスラム教の国だったか、と今更思い出す。

昨日の食事はスーパーで簡単なパンやリンゴで済ませいたので、今回がこの旅初めてのレストランになるはずだった。

ドイツまで来てハラールフードか、と思わないでもなかったが彼の好意に素直に従ってみることにした。

大豆のミートボールのようなファラフェルとケバブライスを食べ、食後にはトルコチャイを出す店に行った。

店の中は見事に中東系やトルコ系の人ばかりで、西洋人は全くいない。

アラビア語なのだろうか。

彼らの会話は全く分からなったが、私を歓迎してくれていることは伝わってきた。

私は礼を言い会計をしようとすると、女主人が首を振った。

お店のおごりだという。

他の国から来た客からはお金を取らない。

それがイスラームの優しさだ、と。

そういえば先ほど昼食を取った店でも、イラク人の彼がご馳走してくれていた。

私は厚かましくもその言葉に甘えて、「シュクラム」アラビア語でありがとう、と言い店を後にした。

そして次回こそは、必ず自分のお金でドイツの料理を食べるのだと心に強く言い聞かせた。

 

ホステルマンハイム ドミトリー